昭和43年1月7日 夜の御理解★(録音状態が悪い)



 今日、急に、ここんところ(?)ですから、病気でおるような状態。学生会の、(?)さんが出てまいりましてから、「しばらく(暇を頂いていいでしょうか?)」て事言うておった。(ほんと老眼に?)どういうことだろうか。
 「だいたいその、金光教で言う天地金乃神と氏子との関係。その、いわゆる関係について、少しお伺いしたい」とこう言うのである。そんなちょっとその、( ? )ただ、親神様と氏子と、そういうような、まあその、情感というものが通う。確かに、(子牛が?)親に孝行するような心持で、向かえばこの神様との、交流が始まる。
 確かに、そういうようなものが、と言うてそれをあなたが(?)する為に、どういうふうに説明していいか分からんから、とおっしゃり、(?)の書物を紹介した。こういう本がある。こういう本を見てごらん。と言うて。
 ところがね、その、この神様は、こんなところもあるよ、と言うて話した事でございました。実は私は、朝からこう、(?)朝からなるわけなんだけれども。幾日か前から、まあその、ぜひとも行きたいと思て、行きたいと思た。
 神様にお願いするけれども、これはいつもの事ですけど、(憶測?)でなからなければ、まあたいていの事なら、辛抱してやってくれ、とこういうふうな感じ。一時でも私、ここを(離したくない?)、てな感じすらあった。何か、そういうようなが神様でもあるもんね、と言うて、で、私時間もらいましたから、昼の御祈念さして頂いた。
 そしてその、今質問を受けますその事を神様にお届けさしてもらいよりましたら、また新たに頂きます事がね、★ちょうど、庭にウグイスが止まっておる情景であった。次にあの、長浜に、こうチョウチョが戯れて飛んで来ておるのが、様子を頂いた。
 私どもと神様の関係と言うのは、あながち親と子と言う情感だけではないということである。それは、宗教学者の説くところによると、(大精霊に対する小神霊だとか?)(だいじゅうじ?)または、そのものが、私どもの心が小天地であるとか、いろいろその、説によって分かれておる。
 けれども、実際、実感的に(?)とする神様とはどういうような神様なのか。また、私どもとどういう関係をもって、いわゆる、行けば、この神様との交流が頂けるのか。そういうことである。ね。
 昨日、末永さんが、昨日、(上野ふみさん?)が東京へ( ? )ので、玄関に近くまで行った。あちらのお父さんも兄さんも来ておられる。それでお父さん、あの、すぐ手紙をやって、「妹が合楽で修行してるんだから、今年はどうでも、学院に入るように」と言うてその、言うてよこしておられる。私にも、そうしてやってくれ、と言うて、あちらのお父さんから言うて来てもらった。
 だから私、その事を末永さんに伝えるけれども、末永さん言われるのに、「せめてもう1年はここで修行したい」とこう言われるわけです。もう1年ぐらい修行さして頂いて、学院に入るなら入りたい。(と言うのである。?)
 そして、帰ってきてから、ここで(?)されるのに、ね、どうぞ、( ? )必要もない私の信心を、(?)分かってくれそうでもございませんから、ただ、(?)合楽で修行さして頂いておるということは、私は、教師にならんでも、一生あそこである、ああいうふうに(?)おっても、もう楽しくて楽しくてたまらん。(         ?        )
 お父さんとしては、やはり、まあ、身内の信仰体験なら、(幸を祈っておられる。?)また観念的なものもです。ね。ある程度のその、神の見方が違うのです。だからって学院に行きに、(  ?  )ね。
 成り行きを尊ぶ信心。こげなふうに頂く事が誰もせんである。ただ今、教祖の神様と恋愛中だと言うような、ようなことを言うておりました。私は、それは素晴らしいと思った。
 あのごつごつとした、石畳の上に座って、御祈念をするという事は、もうとにかく、教祖の神様がいとしくて、いとしくてならない。もう寒い暑いともない。ね。暑いもなければ寒いもない。そうでしょうね、(もうお取次もね?)言うていいのは、あの、石段が学院から逆なんです。(?)にうつりまして、それこそ、もうほんとに体の内から、もう流れるような汗をかいて、( ? )もう汗をかいとりました。ね。または寒かってもです、もうとにかく、もう体全体が真っ赤になったような感じである。心があったまってくる。不思議な心である。
 どうもこの天地の親神様、神様は、私どもが言う神様は、私どもとの関係と言うのはね、(離れん親と子。?)教祖は、「子供を持って合点せよ。神の氏子守っておって下さることを悟れ」とこうおっしゃる。
 親と子の情感、けれども、それにもまた増した、様々なデリケートな情感というものがです、向上する。それで私、御祈念終ってから、あのね、(   ?   )に対して、私は、親と子の情を持って、まあだいたい(それかな。?)けれども、また、教祖もそう説いておられるけれども、また、多くのお粗末な、そこんところをひとつの基調にして説いてある。
 けれども、確かにね、その、神様と私どもとの情感ち言うものは、それこそ長浜に、チョウチョが戯れて飛んで来るように、または、あの雲を伝うて、うろうろやって来て止まるように、そういうようなものが、いうなら、それが天地の理由ない感情である。
 私どもと神様が、で若先生が言うた、「目下恋愛中」だと言うのは、それなのである。そういうふうに、神様と私どもとの間に交流して来る。喜びが交流しない雰囲気もある。ねるようするに、私は、結婚に入った男女の触れ合いのようなものである。
 「あいよかけよで立ち行く」とこうおっしゃる。男がおって女があって始めて、夫婦が生みなされて行くのである。「あいよかけよ」片一方だけじゃどうにもできないのである。いかに神様が俺は天地の親神だとおっしゃっても、ね、私どもがそれを認めなかったら、ここに何も生まれてこない。お互いが認め合う。ね。
 それがもともと、( ? )のようなものである。そういう、いわゆる、そういう関係というものがです。ね。あいよかけよで良いものが生まれて来る。あいよかけよで立ち行くのである。
 これは、いわゆる金光教の神観と言うかね。その、今日、皆さんの言葉もってすると、神様と人間との関係と言うのは、あっと言う、地球に対するひとつの子である。考え方、また頂き方なのである。
 私は、(多く?)今日、それを頂いてみてから、ちょうど、新たな情感と言うよりも、むしろそれの方が強い感じであった。どうも神様は命懸けである。もう私が立つ事ですら、(突き離さらんのである。?)もういつも立たされておると、(?)である。というような感じである。ね。
 そこに、両方のです。いわゆる、相思相愛と言うかですね、神様との中に、そういうものが生まれて来る。そして、(それぶって?)結婚ということになる。それから良いものが生まれて来るといったような、私はそんな感じですけれどもね。
 確かに、私、信心が進む時には、確かにそういうような感じである。ね。信心が好きだと言うのはそれである。ね。どこに変哲のない、神様を好きになるんです。とにかく、毎日会っとったら、こちらの方が(燃えなくなって来るのである。?)ね。
 例えば、末永さんが言われる。もう、とにかく、「親先生から好きになってもらいたい」もう、このつもりだった。ここで御縁頂いてから。そこから、親先生が(どのようまでおらすか?)ということをいつも考えており。ね。とこの頃の体験発表の時に、話しておりましたようにですね、そういうようなところから、お互いが、私、交流し出すものが生まれて来るのじゃなかろうか、と。
 ここでおかげを受けておった(?)ごらんなさい。確かに、そういうものを感じます。例えここで、(  ?  )はあ、何とかかんとか言うて、(かえるとこ、かえなん、かえなんとか言えるけれども。?)
 それこそ、帰る帰らん、それは(一昨日のこと?)であってですね。実は、もうそういう、いうなら、やはり、(        ?       )ものがある。お互いに好き合うものがある。そこに、(?)と言うかね、特別の信心感情と言うものが、私を通して、神様の情感というようなものも頂いておる、といったような感じ。
 これは、神様と私どもとの関係というものをです、そういうふうに、説かせて頂ける事ができる。そしてむしろ、それの方が分かり易い、(ひょっとすると?)1回きりであるといったような感じがいたしましたんですけどね。皆さんどうぞ、「目下神様と恋愛中」と言ったようなですね、そこを一遍通らせて頂くと有り難いと思いますね。どうぞ。


明渡 孝